2016-01-24

M氏に会う


修復した作品を渡すため、M氏と待ち合わせる。

自分の知っている作家や他の分野の知人友人と比較しても、稀有な存在の氏。
画家であるその人と、相対して自分が話せることが
回を重ねるごとに、ものすごいことである、という感が沁みる 。
平凡な土曜の日中、人で溢れる吉祥寺の街中で
コーヒー片手にここに居ることが不思議な気がする。



今月、二日連続でアウトサイダー的作家の映画を見ていた。
孤独の中で創作を続けるひとたち。
その原動と人となりが気になり
自分への問いかけも込めて観ていたのだけれど
この生身で目の前にいる氏の口からは
まさに小説より奇なり、の遍歴が表れてくる。


 どうして、”表現”をするのか。
その意味を氏は否定しようのない体感、信仰とも言える感覚で獲得しており
そこに至るまでの修行僧のような半生、常人離れした信念と行動力は
話を聞くたび、計り知れない大きさになる。
凡庸な自身には恐怖心が湧くほど。今の有り様から目を逸らしたくなる。
ごく僅かな共通項と、大いなる興味と憧れをもって追いすがるように質問を重ね
こちらはもう、聞くに徹する。


 美術表現は大きく割って、2つの種があると思っているのだけれど
・歴史上の表現の定説において、新たな時代を拓く試みを示していくこと
・個人的な精神的表現
 M氏は完全に後者であり、その揺るぎない様相に感服する。
絶対的で強靭な存在。



自分がこうしてものを創り出すことにおいて、喜びが行き来する心の発動、原動は
やはりこの地上に繋がって生きる中で何を喜び、美しいと思い
自分の根源的な部分を想い続けていくこと、のような気がする。
わたしの体をかたちづくるものも
連綿と今まで続いてきた記憶が細胞に刻まれていると思いたい。

今まで自分が慕ってきたモノや人も、愛おしさを感じる対象は
やはりこういうことだった。




留めておきたい状況を惜しみつつ、氏と別れたのち
駅で会話の端々を思い出しメモに綴る。
もっと奥行きのある言葉だったのに
目の前の文字はありきたりの語彙が並び
ありえないけれど、録音でもしておきたかった、と悔やまれる。



 「自分には全く自信なんてない。作品の存在が偉大なんだ。」


この感覚は、遥かすぎる。


 

2016-01-22

BGM.



デヴィッド・ボウイを聴き続けている、この頃。


10日の訃報を耳にした時は
彼がどんなことをやってきた人だったのか、ほとんど知らず、だったのに。
印象的な瞳のCDジャケットに覚えがあるくらいだろうか。
あと、戦場のメリークリスマス、と。


ニュースは世界をめぐり
イギリスの街では、大勢の人が夜に集まり
彼を悼み、想いを共有しているシーンが流れた。
その光景を見た時に
”ああ、なんだかすごい影響力のある人なのに、わたしはよく知らない!”
という気づきが
なにかを失ったままおいていかれてしまうような気分に膨らんで
にわかに追いかけ始めたのだった。

ー という感じなので、まだまだだね、と笑われそうなのだけれど
今、一生懸命聴いている。 すごくいい。


日本のメディアはこの訃報に際し
大目に見たって褒められない内容のものがいくつかあり
昨今の日本人らしい幼さや浅はかさに思い至る感じで、がっくりした。
この国での想像力や表現に対する愛情理解は、緩やかに希薄になりつつあるのか。
機微や深みまで掬い取れないことがある。
ここ最近時々触れる、物事に対するパサついた感覚は、どこか恐ろしい。




  ”今の世の中って、余りにも沢山の情報が溢れてる。
  本当なら何が適切なものなのか選択して生活の中に取り入れていくべきなのに
  それが不可能になってるよ。
  それを解決するには、僕達がもっとシンプルな生活スタイルに
  戻らなくちゃいけない。”  (83年 - デヴィッド・ボウイ)



かつて、この頃にこんな風なのなら
この時代はもう、なんて言ったらいいのだろう。



* 



わたしは、制作時には音楽が必要なタイプで
傍に人気(ひとけ)があると、なんだか集中できる。励みになる。
そんなことが多い。
いまだに通う、近所の陶芸教室もしかり。
自室でひたすらに篭るのとは異なる魅力がある。
音楽は、そこに実際の人はいないけれど、有り様が耳に届く。
想像できる。


D・ボウイの変遷は、こうして今辿って見てみても
それはそれは目まぐるしい変容で
いわゆるファンは、その時代時代で大いに戸惑っただろう、と思った。
期待されるものを重々知りながら、自分への忠実を選択できること。
大勢の観客の期待に迎合するより
自身の在り方に誠実だった姿にこころ打たれる。




名の有る人も、無名の民衆の様子も
全くの他人も、笑いかける友も。
人の生きる有り様に思い馳せながら、手を動かす。



追悼movieを観に行く。1.23.



2016-01-19

1月中旬。



12の月をこつこつと過ごし、積み重なってきたことが
明けて新年には、仕切り直しとなるが如く一掃した気配になる1月。
今までの諸々が、すっきりリセットされてしまったようで
熟れてない、馴染まない感覚は
新しいものをつい窺ってしまうわたしにとって、どこかやりにくく感じる時期。
途中経過のものから継いで拡幅していくことができない、まっさらなスタートは
すこししんどい。
一昨年は、やはり年末年始の区切りで
温めていた流れが、ふっと切れてしまったのだった。
でも、文句は言えない。大昔からの繰り返しのこと。


今月も中旬になり、気がつけば今までの日常に合流し始めている。
つくるべきものに誘われて。今年はお正月気質からの復帰が早い気がする。





2月に企画されている、伊豆長岡のnoir/NOKTAからグループ展のDMが届いていた。
ギャラリー10周年、をテーマとしての展覧会。

この場所での初めての搬入の景色が頭に浮かぶ。
わたしも、併走して来た時間。
この手元の景色も、紆余曲折で続いた10年を含んでいる。


2016-01-14

最近のことばから。



2月に控えた個展のための準備。
搬入まであと1ヶ月強。

慌ただしく過ごした12月と年始の気配が少しづつ落ち着き始め
作業ができる夜の時間が確保出来ることに、ホッとしている。
帰宅してからのこの時間が、日中恋しくなっている。
最近そのことを自覚する。


先日の会に、隣に居合わせた絵描きの女性。
「絵の存在がもたらす素晴らしさを絶対的に信じている」と。
わたしも手放しで尊重できるところ。
そうせざるを得ない表現者のことも、心から尊敬する。

ただ、自分のしていることととなると一転。
側からはそう思われていないことだと、戒めている。
不必要なことに情熱を掛けているこの身勝手さ。
今すぐ手を止めても世の中には何の影響もない。
そう知っていても、状況をうまくかわして
自分にとっての第一等に推し進めようとする。
両極端の中に立つ。




気になった言葉を抜粋。
『 現代アートとは、作家の内部だけを見つめるのではなく
自分の置かれた時間と場所を含めて作品にすること』- 高橋 龍太郎
高いところから自分を見下ろすような目線。


そして先日の帰り道。
陶芸家の友人曰く「現代美術が出来ないから、クラフトを選んだんじゃない。これがやりたくて選んでいるんだ。」


わたしにとって、実感を伴う言葉になるか。

 

2016-01-11

海と山の散歩

年末赴いた高知。
今回の目的は、「海と山とをさんぽする」 こと。

道すがら、ふと気に留めたものを拾う。
自分は何が気になるのか、その目線を撮りたいとも思っていた。



暖冬の今年、高知市街は歩いていると上着が要らなくなるくらいだけれど
ゆかりさんの窯場は山の中にあり、日中早くに日が陰るので
凍てつく青い光に包まれている。
最後のカーブを曲がったところで、一変する冬景色。
ひとつの曲がり角でこんなに違うのか、と、驚きつつ笑っていた。




吹きつけたようにうっすらと現れた霜。
筒切りになった薪材の下に、ちいさな野いちごが赤く光る。
つるりとハリのある粒は凍っていて、口に含むとシャリリと冷たい汁がにじむ。
輪郭のはっきりした酸味とかすかな甘み。

こういう口にできるものを見つけた時は
「あ!」と、今も昔も同じ嬉しさがある。


窯場では、宿泊先の松本くんの家で使う薪を一箱もらって
山の散歩へ移動。









ものを拾おうとする時、山道は案外綺麗にされていて
あまり足元にものが散らばってない、というのがわかった。
そして、だんだんと意識は”登る”方に向き、のんびりとまわりを見遣って歩くというより
普通に山登りの気分になっている。
気ままに足を止めるゆったりした気分、にはならず
目の前を通り過ぎる時に、ぱぱぱ、と撮ったり拾ったり。

それでもすがすがしい空気の中で味わうおにぎりは
冷え切って硬くなっても格別の味で 
その冷たすぎるごはん粒を可笑しがって食べていた。



おしりに敷いた手拭いを、
腰掛けた倒木にそのまま忘れてきてしまったな。











拾い歩きスターターに易しいのは、やはり海辺で
もう、いちめんに石も貝も木片も”散らかっている”。

貝拾いは、けっこう人柄も出る、というのが前回でわかったのだけれど
相変わらず、私は、ガサガサゴソゴソした貝片をつまみあげ
ゆかりさんは思わずにっこりしてしまうような可愛い貝を見つける。
 大造さんは、寝そべりながら流木の標を立てていく。


暖かく熱せられた小石の浜辺に寝転ぶ。
地面に張り付いてしばしじっとして、呼吸する。
生きていくのには、わたしには最低限何が必要なのか。
環境や立場を変えることはできるか。

そんなことをぼんやり考えた。



地面からも日差しからも心地よく温められて
 そのまま、昼寝になった。